こんにちは、ぽてさらです。
今夜のおつまみに”ぽてさら家のヨットバカ”の軌跡を記しました。
お酒のすすむ一品となっておりますのでぜひ一読ください。
はじまりは突然に
「こんなのがあるらしいよ~。」
と、ある日 カミさんぼくにみせてきたのは「ジュニアヨット体験してみませんか」という趣旨の広報記事だった。こどもの習いごとには親の付き添いが必須なスポーツも多いが、そのクラブでは活動は土日だけでしかも親の同伴はマストではないという。
「ん~、まぁ体験だけなら行ってみてもいいんじゃない?」
と適当に返答しつつ内心(面倒はごめんだ。俺は絶対に関わらんぞ・・・)と思っていたのを覚えている。
当時、長男は小学2年生。少年ドッジボールクラブにも所属していたが、親の目からみてもそれほど球技に向いているとは思えなかった。カミさんからすれば本人の可能性を広げたかったのかもしれない。
カミさんのそんな想いをよそにヨットに乗らせてもらった長男の感想は「まぁ、ドッジボールよりマシかなぁ」程度のものであった。しかし同い年の子どもたちも何人かいてコミュ力だけは人よりあった長男は、すぐにクラブに打ち解けたようでヨットに乗りにいくというよりは、友達と遊びに行く感覚で週末ヨットに通う生活がスタートしたのである。
転機
そんな感じで彼の「週末ヨット」は始まったのであるが、当時を振り返るとおよそ習い事とはかけ離れたものであったようだ。コーチが当時の彼の動画をみせてくれたことがあるが、まじめな話をしているコーチの前で、くるくる回ってなにやら楽しそうであった。また瀬戸内海は風があまり吹かないことで知られており、天気の良い午後になるとヨットの中でウトウトしている始末。ドッジボールを続けていたこともあり、ハーバーへ行かない日も多かったように思う。

そんな状態が続いた小5の夏、「和歌山でレースがあるらしい。お父さん連れて行ってやって。」とカミさんから唐突にバトンを渡された。当時ぼくは不真面目親代表を自負しており「いやや~、その日は釣りに行くんや~」とダダをコネていたが、カミさんの圧に気圧されて「分かりました。行かせていただきます。」と初めて親らしく息子のレースに同伴することになった。
小学生セーラーは皆、OPと呼ばれる小さなディンギー入門艇からスタートする子が多い。セールの艤装がシンプルで小さな子供でも簡単に一人で乗れて、かつ沈みにくいという特徴がある。ただ日本では残念ながら、ヨット競技自体がマイナーであるため競技人口はお世辞にも多いとは言えない。この和歌山の大会も30余名の大会だったと思う。
そんなレースにヨットのヨの字も知らない素人親が、コーチと共にゴムボートに乗ってレース観戦を始める。レース海面につくと運営の方たちが子供のレースといえど真剣にコースを作っている。どうやらスタートラインから一斉にスタートするらしい。スタート後は
① 風上のマークを目指して回航
② 下マークと呼ばれる風下に打ったマークを回航
③ ①と②をもう1周
④ フィニッシュラインに入った順番で成績が決まる
ざっくりそんなルールのようだ。当時のぼくには細かいことは分からなかったが長男はそのクラスでは中ほどの成績のようであった。
そんなレースを何回か続けたあるとき彼はアクシデントに見舞われる。何のトラブルかは忘れてしまったが艤装品修理のため一旦、ハーバーバック(陸に戻ること)をせざるをえない内容だった。ところが次のレースはそんなことはお構い無しに始まってしまう。レースが始まってからスタートしなかった艇はDNSといって一番悪い点数がつく。そのことを良く理解していた長男は、修理を済ませレース海面に戻る最中に声を震わせ静かに泣いていた。おそらくクラブの仲間たちや各地でできたライバルにおいていかれることが悔しくてたまらなかったのだろう。彼がこれまでそんなに真剣に何かに向き合う姿をみたことがなかったぼくはそのときハンマーで頭をたたかれたような衝撃をうけた。
「こりゃあ、親としてもっと真剣に関わらにゃあいかんな・・・」
彼の涙は不真面目親の心を悔い改めさせるのに十分すぎる説得力をもっていた。そのレースの成績は覚えていないが当時のぼくにとってそれは重要ではなかった。真剣に向き合うものがみつかったのはぼくのほうだったのだ。
はじまるヨット漬けの日々・・・
そのレースから帰ってぼくは早速ヨットの勉強を始めた。ルールや艤装、どうすれば早く走らせることができるのかなどなど。週末になれば練習は必ず参加しコーチの指導や子どもたちの出艇を手伝い、レースがあると聞けば何をおいてもどこであっても駆けつけ、各地のコーチや親御さんと酒を酌み交わし情報収集につとめた(今思えば得難く楽しい体験であった)。掛けられる時間とお金は惜しげもなく(とはいっても生活が破綻しない範囲内で)長男の「週末ヨット」に捧げた。カミさんはぼくの変貌ぶりに空いた口が塞がらなかっただろう(笑)
その甲斐あって長男は徐々に実力をつけていった。全日本レベルの大会にも上位を争うような結果を出すようになったのだ。中1になるころには選抜選考会を8位で終えヨーロッパ大会出場の権利を獲るところまで上り詰めた。

立ちはだかる障害・・・

順風満帆にみえた彼の航海にとある厄災が降りかかる。そう「コロナ」である。スロベニアで開かれる予定だった大会はコロナが世界的に猛威をふるうなか、関係者で話し合い両国での待機期間を考慮すると1ヶ月近く掛かることもあり、大会を辞退せざるを得なかった。そうしたなか地元での練習もできない状態が数カ月も続いた。こんなふうに日常が奪われる経験は親子共々初めてのことで、戸惑いとともにやるせなさを感じる日々が続いた。あのときは感染して命を落とした方もいて、全世界が未知のウィルスに恐怖していたときだったのだからやむを得ない。同じようにこの時期、国内の青少年の大会が中止になり数多くの青春が奪われたことは本当に悲しい出来事だった。
中2のアジア・オセアニア大会はなんとかタイのパタヤで開催され、かろうじて参加することはできたが、この頃もまだ厳しいバブル対策のもとでホテルに缶詰であった(そんな中でも子どもたちは国を超えて親交を深めることができたことは救いである)。親たちは目と鼻の先にあるコンビニにも行けず、ビールの調達に苦労した(笑)
ヨットバカの誕生

そんな紆余曲折がありながら、長男は関東の高校へ越境入学することを決断した。ここ数年インターハイで負け知らずのヨット強豪校で自分がどこまでやれるか試してみたいとのことである。私立であったため、親はまず家計の心配をしなければならなかった(笑)でもぼくは自分のやりたいことを追っかける彼のまっすぐさを羨ましく思っていたし、カミさんも応援しているようだったから引き止める理由もなく、彼はあっさりと巣立っていった。
高校に入ってからのヨットライフについては離れて暮らしているぼくらには知る由もなかったが、相当キツい生活だったことは伺えた。全国で優勝するということは毎日の鍛錬、地道で愚直な練習に裏打ちされていることはどのスポーツでも同じだろう。そんな環境と先生の指導のおかげもあって、インターハイでは上位を争うことができ世界大会にも出場を果たした。3年では消去法であろうことかキャプテンに選ばれ、部員を引っ張っていくという重責を担わされ、おちゃらけキャラではいられなくなり悩むこともあったようである。持ち前の能天気さと明るさで重責に打ち克ち、卒業できたことが彼を人間的に一回り大きくしてくれたと思いたい。「ヨットが好きだからがんばれる」そうだが嫌いにならなくて良かった。
また長男が家を離れたと同時にぼくには「燃え尽き症候群」のようなものがあった。もう磨かなければいけない石はぼくの手元を離れて勝手に転がりだしたからである(笑)これまであんまり楽しそうにヨットに乗る長男をみてきたものだから「じゃあ、ぼくもヨットに乗ってみるか・・・」とここに二人目のヨットバカが誕生。どうやらバカは伝染るというのは本当らしいがこの話はまたの機会に・・・。
そして現在へ・・・

その後、大学に進学し現在に至るが忙しいキャンパスライフを送りつつも、相変わらずのヨット漬けの日々を送っている。監督からは「息子さんはねぇ、ヨットはもうそんなに力入れなくてもいいんです。単位です、単位!」と普段の生活がうかがえる激をいただく始末。頼むから留年しないで卒業してよね。
長男は、ぽてさら家にあって一番、早い段階で風をつかんで引き寄せた人間である。それはかれ自身の人柄もあるが、大いに周りに助けられているということを胸に刻んでほしい。
次の舞台は全国の大学がしのぎを削るインカレ。うちのヨットバカがどこまでやれるのかもうしばらく楽しめそうである。
では——
明日も風の吹くままに!


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